遊びの発端は個人の興味関心にあるわけですが、それはやがて人との共感を求め思いを分かち合うというところにまで発展していきます。初めはひとりの思いつきもたくさん人が絡み合うことによって、様々なイメージが交錯し思いもよらない方向に行ったりもします。意見の食い違いはケンカも引き起こし、ぶつかり合いと仲直りの練習にもなっています。まさに、人生に必要なことはすべて砂場で学んだ、と言えるのかもしれません。
このことは人の成⻑のプロセスとして、組み込まれているものと考えることもできますが、そのためには自由な時間と空間が必要です。それをどれだけ確保してあげられるか、というといささか難しい問題になってきます。子どもの能力開発のスピードは早まり効率が求められています。
それに反し人とのかかわりは、こちらで予定し計画通り行わせることは不可能だからです。偶然ともいえる人との出会いがあり、やり取りを繰り返していく中でくっついたり離れたり先は読めません。
うまく仲良くできなかったことが、次の成⻑の糧となり関係を学んでいきます。これさえも、プロセスとして意図的に組み込むことはできません。見守るしかないといったところでしょう。
遊びはいったい何のためにするのでしょうか。
やっている本人からすれば、明確な目的があり、やりたい思いを実現するために頑張っているのかもしれません。そのことが何のためなのかはどうでもいいことなのですが、そこに集中して遊べることが大事です。
ちょっと大きくなると、何をして遊べばいいかわからないなどと言ってきます。
自分一人ではなく、人とどうやって遊べばいいのかわからず困っています。この時間もすごく大切で、つまらなくてたくさん悩む経験は、自分探しの練習とも言えます。まさに遊びの中には人生のエッセンスが盛り込まれており、どんな能力にもましてその方向性を見極めていく源となっています。
そしてそれはひとりの力で完成されるものではなく、人とのかかわりにおいて実現されるものです。このプロセスこそが人生のスタートにとって、欠かすことのできない部分だと思っています。その正体をつかむことは難しいのですが、近道はありません。むしろ遠い回り道の中にこそ、その答えはあるのかもしれません。
遊びの関係は、横だけではなく縦にも広がっています。同じくらいの年齢だとついつい競争意識が生まれ、比較したくなってしまいますが、年齢差があるとそうではない思いも生まれてきます。上の子に対しては真似してやろうといいう思いがあるし、下の子に対しては手伝ってあげようという優しい気持ちもうまれます。それぞれが絡み合い多様な人間関係が築かれていきます。そのためにも、小さな家族の中での内向きの関係ではなく、開かれた家族間の関係が大切になってきます。そうやって大人同士も子ども同士も、関わり合って生きていくことで、生活空間はますます豊かになっていきます。世の中の流れは、必ずしもそうはなっていませんが、取り戻す必要を感じています。
ライオン(2022.4)
