人は自然と友だちになれるか?


自然と言った時に何をイメージするか。美しい山や海、鳥や獣たち、春夏秋冬、様々な状況が思いうかびます。共通するのは、人の力ではどうしようもないこと。でもそれを何とかして、人の都合のいいように変えようとしてきたのが文明なのかもしれません。子どもの姿はまさに自然をイメージしますが、徐々にそれも薄れ早くから文明の洗礼を受けて大人化してきています。このことが子どもの成⻑を早め発達を促しているのかと問われると、どうも疑問を感じます。自然とは何かという大前提は置いておくとして、自然との関係をどうとらえるかということは、子どもと大人、子どもと社会を考えていくうえで重要な視点だと思っています。

子どもは自然の生き物と言われています。自らの欲求の元に様々な活動を行っていきます。いいとか悪いとか、上手とか下手とかは全く関係ありません。ただ自分がやりたいこと興味のあることについて立ち向かっていきます。しかし本来持っているこういった傾向も、今は早くから閉ざされ行儀の良い子育てが当たり前になってきています。人はこれからも人間社会の中で生きていくわけですから、それなりのルールやり方というのは学んでいかなければなりません。しかしそれを急ぎ過ぎると、本来持っている子どもの良さが損なわれていくような気がしてなりません。大人は自然に対する時のように、手を加えモノを利用して、何とか自分たちの都合のいいようなものに変えていこうとします。待つことができないのです。

自然は私たちにとって、時に厳しく時にやさしくあるがままの姿を開示しています。昔はキュウリやナスは夏の野菜でしたが、今は一年中あるのが当たり前、自分たちに都合のいいように作り変えられています。子どももそうなっていくのかと思うと、なんか残念な気がしてなりません。木や花は四季があって、その姿を様々に彩ってくれます。またその環境によっていろいろに形を変え多様な姿を楽しませてくれています。桜がきれいといった時、その姿が一年中そのままだったらどうでしょうか。多分なんの感激もなく当たり前の風景として流されていってしまうのではないでしょうか。つぼみが膨らみ、やがて花を咲かせ、実をつけ(コロの子たちは食べたりしますが)、また枝だけになっていく。そしてまた次の年には少しだけ大きくなって(枯れて枝が落ちたりして)かたちを変えて繰りかえす自然の循環。子どもの成⻑をその中に見つけられればと思っています。

何かいい器、いいかたちがあるわけでもなく、あるがままのかたちを自分なりに形作っていくこと、その多様性のなす美しさこそが自然のもつ力のように感じます。早くから適応を覚えさせ、大人化させていく風潮に対して、もっともっと自然な子ども時代を残してやりたいと考えます。今の子どもはすぐになんでなんでとわけを聞きたがりますが、わけなんか教えなくていい。まずは「へぇー」と共感できれば、次をまた見つけていきます。子どもの後をついて行けばいいのです。

ライオン(2024.4)