親切なお母さんは、子どもがどうしてとか、どうすればいいのとか聞いてくれば、ていねいに答え、こうすればいいのよと、見せてあげたりもします。子どもが小さいうちは、こうした対応が基本的な愛着関係を築く上でも、重要な機会になっています。しかし、この親切さには、自分の眼で見て、試し、自分で考えるというプロセスを肩代わりし、質問することによって答えを待ち、やらないうちから、やり方を教えてもらうという安易さが秘められています。
身の回りのことも、初めはそううまくいくものではありません。ご飯を食べればこぼすし、着替えも自分からはなかなかできない、そんな時期がかなり長く続きます。でも、それを気長に見守っていれば、それなりに、なんとかこなしていくものです。手を貸さなければ、自分でやるしかない。そのことを身をもって感じていくわけです。その体験が遅くなればなるほど、自分で自分のことをするのに、抵抗が出てくるような気がします。やってしまえば何でもないことも、いざ自分ひとりでやるとなると大違いです。ズボンの前後ろ、シャツの裏表、脱いだ後の袖を元にもどしたり、何気なく大人がやってしまうことのひとつひとつが、子どもの自立ばかりか、気力までも損なわせているような気がしてなりません。
よく子どもを見ていれば、自分で手を出し、何でもやってやろうという時期が必ずあるはずです。それなのに、忙しさの中で、やってあげた方が早いとか、汚されずに済むということで、ついつい子どもの出番を奪っていないでしょうか。初めは小さいから仕方がないと、手伝っていたものが、いつの間にか大きくなったにもかかわらず、同じように手を出してしまう。大人がやってしまった方が楽なのは分かりますが、この時期にたっぷり時間をかけて、少しずつ自分でできたという体験を積ませてあげたいものです。
一方で、小さいうちからそんなに苦労させなくても、大人になれば放っておいてもできるのだから、という意見もあるかと思います。確かに、多くの場面で、子どもたちが具体的に出くわしている問題は、そのうち時間が解決してくれることも多いでしょう。かわいい子どもに無理をさせなくても、ご飯は食べさせてやればいいし、後片付けできなくてもそのうち何とかなるし、服だって自分で着られるようになります。子どもだって、ちょっとがんばればできることでも、大人が替わりにやってくれれば楽なわけで、「やって、やって」となります。この関係が循環していくと、何かができるとかできないとは、また別な問題が生まれてきます。
この問題とは、自分で自分の問題を解決しようとする気持ちが育たないということです。人が生きていく中では、小さいなら小さいなりに、大きくなったら大きくなったなりに、様々な問題に出くわします。その問題を解決できるかどうか以前に、自分なりにどう考え行動していくかということが重要になってきます。小さいうちは何もできないから、なんていうのはとんでもないことで、どんなに小さくても、その子なりの解決のやり方があるものです。みんなと同じである必要はありませんが、その子なりのプロセスを経て、現実に向かい合う態度を養う努力が大切だと思います。
しかし、そのために何でもかんでも、できたことをほめて、やらせればいいというものでもありません。食事についても、残すのが当たり前。全部食べたら大喜びでほめられる。親にとっては嬉しいことかもしれませんが、こんな当たり前のことまで、ほめてやらなければならないとしたら問題です。「見て、見て」と言って、大人の視線を集めなければ気のすまない子、どちらも大人に支えられ過ぎて育てられてきたために、自分の本当の気持ち、欲求がわからないまま、他人の顔色を見て動くようになっていきます。
お腹がすくから、ご飯を食べる。人が見ていようと見ていまいと、やりたいからやる。自然の欲求からうまれた自立した子どもの活動を、親の無意識の愛情で妨害したくありません。歩き始めたころの子どもは、何でも自分でやろうとします。そこに、危ない、汚い、うまくできない、かわいそうなどといった大人の介入が加わることによって、次第に自分でできることまで親が肩代わりするようになっていきます。自分のことを自分でする、この当たり前のことが当たり前でなくなった今、親自身が、もう一度子どもと共に歩きはじめる覚悟が必要になってきているのではないでしょうか。
